2019年12月06日

まほろば紀行 永六輔氏と行く検証の旅『橘寺②』

 私はこの旅で”大和は国のまほろば“と、しみじみ感じながら歩きました。

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「敬って恃まず」。三波春夫の、宗教や宗教家などに対する心構えでした。
要するに、神様仏様に頼ることなく自分を磨くこと専一に生きる、というタイプでした。
人としての生き方を見つめること、は、三波春夫の人生のテーマだったように思います。
そして、聖徳太子が残されたものを見つめ、歴史に残る人物を見つめ、著作や歌が生まれたのでした。

ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2019年11月29日

まほろば紀行 永六輔氏と行く検証の旅『橘寺①』

 太子がここで誕生されたことは知られていますが、高内ご住職の御案内で、太子尊像を間近に拝むことができました。

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通蒙憲法第7条は、「公務員たちよ、怠けるなよ。朝は早く登庁し、夜は遅くまで仕事をすることである。自分の都合で早く帰ったりしたら、横の連絡もつかず仕事が片付かないものだ」でした。
今は“働き方改革”で時間のことは当てはまりませんが、「怠けないように」という憲法ですね。仕事を増やしたくないなどと考えて、成すべきことに背を向けたりしないように、人民のために誠心誠意を尽くして仕事をしなさいという、生き方を導く憲法のように思えます。

ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2019年11月22日

まほろば紀行 永六輔氏と行く検証の旅『太子の悲田院と施薬院』

 奈良市鳴川町、通称”ならまち“に音声館がありますが、この近くに太子が建てられた悲田院(今の特養老人ホーム)と施薬院の跡があります。弱者、貧しい人々の救済のために、真剣に取り組んだことがしのばれます。
 現在、奈良市がこの古跡を管理しているのですが、ここから掘り出された小さな墓に手を合わせながら、この人たちはどんな想いで、どんな境遇で命を終わったのだろうか、と考えました。太子の救いの御手にすがることができたことは、倖せだったと言えるかもしれません。

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1400年ほど前に、聖徳太子が特養老人ホームや施薬センターを作られた、ということ。機会が無いと知り得ないことですね。
文庫本には、その“小さなお墓”を前に手を合わせる三波春夫の写真が載っています。
この日の旅の服装は、永さんから薦められた“セーター姿”でした。
スーツにネクタイという服装が常であった三波には、珍しい写真となりました。

ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2019年11月15日

まほろば紀行 永六輔氏と行く検証の旅『歌は芸能の始祖』②

 よく声が揃っての大合唱、そしてマイクを通しての永さんと私の話に、皆さんが大きな声で笑って楽しんでくださいましたが、あとから、八割の方が痴呆症でいらっしゃると聞きました。御自分のお名前はわからないけれど、「三波春夫」はわかる。明るい元気な笑い声でリアクションを返してくださっていたので、私たち一行はまったく気づかないことでした。

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病いを得ても「三波春夫」の事が分かる、ということに三波春夫自身が感銘を受けておりました。
歌うときの皆さんのイキイキとした表情も、たいへん印象的でした。

ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2019年11月08日

まほろば紀行 永六輔氏と行く検証の旅『歌は芸能の始祖』①

 初めて人間が地上に作りだした芸は、生きている証しの歌でした。心と躰を震わせて響く。

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文中の「明日(あした)咲くつぼみに」は、この奈良の旅の前年、平成9年にリリースした歌です。
作詞が永六輔さん、作曲は久米大作さん。
永さんによる「三波さんが80歳になっても、90歳になっても歌える、声を張らない歌」というコンセプトで作られたのでした。
“声を張らない”というのは三波春夫にとっては初めてといっていい体験でムズカシイことでしたが、一生懸命工夫して優しい声で歌いました。
しかしやっぱり、声を張った箇所があったりします。ご清聴くださいませ。

ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2019年11月01日

まほろば紀行 永六輔氏と行く検証の旅『元興寺にて』③

 追記・『遠くへ行きたい』が放映されたあと、永さんに「あの柱のからくり、テレビを見ててわかりましたよ」とすぐに知らせた人がありました。コンピュータ・グラフィックスをやっている女性でした。また、私の知人も、「この間の柱は、こういう風に作ったのではありませんか」と、プラスチック材で柱の模型を作ってみせてくれました。

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「日本人は生産性が高い」。
この言葉を三波春夫が発するのを聞いたのは、取材を受けている最中、シベリア抑留時代を語っていたときでした。
“抑留中に、仲間を励ますために、戦時の前に職業としていた浪曲を語っていたけれども、そのうちに有志と共に演劇もするようになり、脚本、演出、主演をした。
その折、縄を湯がいてほどいて糸のようにして、それで島田髷のカツラを作った人がいたり、材料が無い中で皆で衣装も小道具も器用に作るのを見て、驚いた”
そういった状況を、「日本人は生産性が高いと、つくづく思いました」と語ったのでした。
無報酬の捕虜なのに、日本人捕虜たちは与えらえた仕事をしっかりと実行していたという事実。抑留の日々を振り返るときに、それは三波にとって、誇りとして思い出されることでした。

ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2019年10月24日

まほろば紀行 永六輔氏と行く検証の旅『元興寺にて』②

改めて柱を見る。永さんを見る。笑いながら、?マークの表情のまま......。

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柱のお話は次回も続きます。

ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2019年10月14日

まほろば紀行 永六輔氏と行く検証の旅『元興寺にて』①

到着するやいなや、

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永さんが描かれた、柱のつなぎ方の絵は、文庫本「聖徳太子憲法は生きている」の279ページに掲載しております。
転載できずに、申し訳ありません。
キャプションには、永さんの字で“奈良・元興寺・茶室・独鈷継ぎの柱”とあります。
永さんと三波は、まるで寄木細工のようなパズルのような、不思議な柱のつなぎ目を、穴の開くほど見つめたのでした。

この続きはまた、来週金曜日に更新いたします。

2019年10月11日

まほろば紀行 永六輔氏と行く検証の旅『夢殿に秋の陽燃えて身は震う』③

 母后が薨(みまか)られた後、この中宮寺にお祀りしたのですが、その御堂は水面に浮かぶ清例(せいれつ)な姿で、正面に安置された『弥勒菩薩(みろくぼさつ)』を拝見すると、太子の母君の面影を写し取ったと言われるだけあって、優しい微笑みに溢れておりました。

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思わず大きな声で歌いそうになった、というのは、ひょっとして、そこにいらっしゃる御魂か神様が「三波春夫の歌を聴いてみようか」と思われて、「歌いなさい~」と信号を送ったのかもしれません!?

ではまた、来週金曜日に更新いたします。

2019年10月04日

まほろば紀行 永六輔氏と行く検証の旅『夢殿に秋の陽燃えて身は震う』②

 さて、中宮という名称は、皇后に次ぐものとして皇室の系譜の中で重要なものですが、太子の母君は母違いの兄君、用明天皇と結婚されて太子をお産みになったことは知られておりますね。

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文中に、“ご覧になりました”や“御様子”などの丁寧な言葉がありますが、三波春夫は普段から乱暴な言葉を使わず、きれいな言葉使いでした。
それも、あえて使っています!というような不自然さはなく、身についていましたが、普段に使う言葉が舞台の上でも出るもの、として、おそらくそれを若い時から心がけていたことが長年の間にピッタリと身についていたのだと思います。
そして、丁寧な言葉は、人を大事に思うことにつながっていたように思います。

ではまた、来週金曜日に更新いたします。